時間差ブーメラン

 団塊ジュニアの先頭が50代に差し掛かり,老害おやじ/おばはんと呼ばれそうな勢いである.しかし,彼ら(筆者も)がまだ若手枠に入っていた20年前,「老害」という言葉にはもっと重い意味があった.例えば,高齢で社長を退いた後も院政を敷いて権力をふるう爺のように,大きな権力を伴った悪のイメージを持っていたものだ.筆者は,中高年を気軽に老害呼ばわりする近年の言説をかなり胡散臭く思っている.タイトルの「時間差ブーメラン」にその思いの一部を込めているのだが,その説明はとりあえず最後の最後に持っていった.どちらかというと明確な論旨を押し出すというよりは,少し思い出話に付き合ってほしい思いで書いてみた.すべて筆者の主観であることを予め強調しておく.
 
(1)思い出
 
 1990年代の後半から00年代までの世論は,かなり一方的に若者をバッシングするものだった.当時の雰囲気を思い描いてもらうために,よく言われていたことの例を挙げてみたい.今とは真逆の命題もある.
 
 ・青少年の凶悪犯罪が増加している
 ・若者はキレやすくなっている
 ・ニートが増えている
 ・若者は甘やかされている
 ・下の世代ほど物質的に恵まれている
 ・若者の学力が低下している
 ・若者の国語能力が低下している
 ・若者の道徳心がなくなっている
 ・夫婦が自分勝手に生きたいので出生率が低下する
 ・独身貴族を満喫したいので結婚しない
 
それと対比する形で,
 ・当時から見た昔の若者は,優秀で根性があり,他人のこころを想像する力があった.
 ・海外の若者は自立心があって,ニートなんぞ考えられない(欧米の若者を想定)
 ・海外の若者は思いやりの心を持っていると同時に根性がある(発展途上国を想定)
 
「最近の若い奴は・・・」という物言いは,大昔から存在するわけだが,00年代のそれは何か一線を越えたような熱気を帯びていた気がする.上記したような命題は,調べれば相当怪しいものであることはすぐ判るが,命題どうしが相互に補強し合うために,信じ込んでしまったら脱洗脳するのが難しい.そして,この論調に沿う言説であれば世間の審査が甘くなり,何でもありの様相を呈する.例えば,こういう出版物が良く引用されていた.
 
   正高 信男  (著)『ケータイを持ったサル ―「人間らしさ」の崩壊』(2003)
 
一群の人々をサル呼ばわりしても許されたということに当時のバッシングの異常性が感じられる.若者バッシングというよりは昔日礼賛的な本だが,
 
   藤原正彦(著)『国家の品格』(2005)
 
はよく売れたので,本来の趣旨とは別に,ある種の人たちに「理屈なんぞいらん」というメッセージを届けることになってしまった.「人殺しは罪だよ」と言うことに理屈を言う必要はないとは思う.しかし,この本は,あらゆる価値観を相対化する努力をせずに他人に押し付けても良いのだ,と一部の人に思わせたフシがあり,結果的に若者バッシングから歯止めを外す効果を持っていた.
 テレビはどうだったか?2007年正月の時代劇でこういうのがあった.
 
   『白虎隊』
 
わざわざ白虎隊をテーマにした上で,ジャニーズタレントを出演させたのは,会津藩の「ならぬものはならぬものです」という七つの教えを現代の若者に対して強調したかったからだろう.これを子供たちが唱和する場面や,野際陽子が格好良く子供をしかり飛ばす場面がわざとらしく出てきて,冒頭から説教臭い.(1986年の年末にも白虎隊をテーマにした時代劇が放映された.こちらも復古的な感慨を強く誘うにせよ,取って付けた感はなく娯楽作品の範疇だと感じられる.勿論これも筆者の主観.)
 
   一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
   二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
   三、虚言をいふ事はなりませぬ
   四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
   五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
   六、戸外で物を食べてはなりませぬ
   七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
 
「ならぬものはならぬ」を強調する点に「国家の品格」の系譜を感じてしまうが,朝日テレビ系列でさえこの保守的な内容だということも当時の雰囲気を語っていると思う.筆者は比較的保守的な気質を持つので,これらの教訓自体については,シンパシーを感じるところもある.四,五などは間違いないところだ.しかしながら,あらゆる道徳的言説が若者バッシングの文脈を伴うところに00年代の異常性があった.
 ちなみに,現在,右派の人達は韓国を良く言わないが,当時は右も左も韓国が大好き・または高く評価していた.流行り始めた韓流ドラマに昭和のドラマを彷彿とさせるものがあり,一部の人は韓国には日本が失った「古き良きもの」が残されていると思ったというのが一つ.会社経営をしている人などは,サムスンが軍隊的な上位下達で,兵隊の社員が必死に働いているらしいことを羨ましがったというのもありそうだった.無論自分の経営能力を棚に上げて.一方,可笑しな言説を真っ向から論破する著作もあった.
 
   パオロ マッツァリーノ  (著)『反社会学講座』(ちくま文庫) 文庫(2007)
 
大学の図書館で偶然見つけ,一語一句自分の言いたいことだったため胸が苦しくなり却って最後まで読めていない.最初に挙げた命題群は相互に補強されているため,その一つでも事実を以て崩されれば,砂上の楼閣であることが露わになるわけだが,まさにその通りの内容である.ただし,一般にはあまり話題にならず世間からは黙殺された形だ.
 
(2)なんで,こんな論調に支配されてしまったのか?なぜいつの間にか下火になったのか?
 
 政治的な背景もあるだろう.ただ,実証はできないものの,より直接的な開始の原因については,
 
①世間が若者に対して抱くイメージが,バブルとその余韻の残る90年代初頭に強烈に印象付けられてしまったという背景があった.つまり,若者の享楽的で馬鹿でチャラくて刹那的な面が強調されたわけだ.古今洋の東西を問わず若者は年配者よりも相対的にそういうものなわけだが,バブル時代の一部のチャラい若者を面白がってテレビが取り上げ過ぎたのが災いした.
②大きく分けて2回に渡る就職氷河期が来るたびに,若者の方に原因を求めたいという欲望が経営層と自分の雇用を守りたい年配者側に生じた
③00年代後半になると団塊世代の定年退職が近づき,何かしら存在感を示したいという漠然とした欲望が生じた
 
辺りではなかろうか.終りの方も独断ではあるが,
 
①命題群の根拠が元来弱いので,ネットの普及と相まって事実が明らかになるとともに急速に下火になった.
②10年代にはいると多くの団塊世代が現役を引退したので,妙な自己主張をする欲望が亡くなった.
③若者の数が減るとともに,実際に平均すると行儀の良い者が増えたので,揚げ足を取りにくくなった
 
団塊世代の心理はちょっと失敬な想像かもしれない.00年代の若者が当時の年配者に抱いた反感と反論が実を結んだ頃には,自分が批判される側になっていた,という意味で「時間差ブーメラン」と題した.そして,道徳論を伴う世間の論調は常に眉唾だと信じるに至った次第.