選択的夫婦別姓

高市政権になる前から思っていたことだけど.

伝統的な家族観がどれほど重要なものか,という話はとりあえずしない.専門家や政治家が十分に議論し,強い葛藤の末に,デメリットや危険性もあることを重々承知の上で,メリットを評価し,ギリギリの選択として,この制度を推進するというなら,従う.しかし,現実は違う.推進派の議論が浮つきすぎて賛成できない.中でも「進んだ国では,選択的夫婦別姓を採用しているから」みたいに進んでいる・遅れているの対立で論じるのは論外だ.一般論として,進んだ先が地獄かも知れないのだから.

 

もう一つ気になる論理としては,

選択的夫婦別姓は基本的人権-「個」のアイデンティティ守る重要性 |ニッセイ基礎研究所

という記事にもある「夫婦別姓の利点は、結婚後も自分のアイデンティティとなっている姓を男女が共に維持できることだ。」という部分だ.これを言う最低二人の女性を映像で見たことがある.

姓をどちらにしても良いことになれば,世代を経るごとに姓の意味は限りなく薄くなっていく.家族に対応する呼称がないのだから.子供,孫の代になると姓を自己のアイデンティティに結びつける感覚自体がなくなっていくだろう.選択的夫婦別姓とはそういう社会を指向するものであるにもかかわらず,自分だけはアイデンティティとしての姓にこだわっているのは矛盾している.矛盾を感じないというなら,それは自分中心の感情論だ.ここでいうアイデンティティが業務上のトレードマークだと言うなら,それは法律の運用問題であって,戸籍制度を変えてまですることか.そもそも法律自体はすでに男女平等だ

馬車馬

有名大学に入るには上級国民の親の下に生まれ,たっぷり教育費をかけてもらわないとだめだ.努力したところで,才能が遺伝していないから無駄だ.努力する能力も遺伝だから,自分が頑張れないのは仕方ない.努力しても運がなければ成功できない.成功した奴は努力や才能があったからではなく,運が良かっただけと思え.etc.,  etc.

 

これらは100%真実ではないかもしれないが,まあある程度正しいだろう.頑張る雰囲気に水を差す程度なら構わないが,諦めと無気力がすでに空気になってしまっている.皆が皆そこまで真に受けていないにしても,理性のある人たちはそのように考えるし,人を鼓舞するような言葉は大きな声では言えない.

 

さて,高市早苗である.

彼女は,馬車馬のように働くと言った.これは自分自身と自民党議員に向けた言葉であることは明白だから,「人を馬扱いするな」という批判は的外れだ.しかしながら,ある種の人達が怒ったのは,何か心の鬱屈を突かれたからではないか.そして,また別の人達の心に小さな火を灯したのではないのか.これがこの発言の真意だとすれば彼女は底知れない.意識的にそう考えたかどうかはともかく.

天皇に望むこと

ロシアがキーウに攻め込んだ時,ゼレンスキー大統領は国民を鼓舞し反攻を始めた.逆にもし亡命などしていたら,もっと簡単にウクライナはロシアの領土になっていたのではないか.その時点で国民の精神が折れただろうから.そうなれば,反撃する理由はない.これは精神主義的なことを言っているのではない.ともかく,十分ではないにしても,反攻が可能な程度には装備や組織があってのことだ.

この出来事を見て,まことに遅ればせながら天皇の存在意義に気付くことができた.「象徴」ということになっているが,その象徴の意味は普段何気なく思っている以上に日本人の心の深いところに根付いている.例えば,日本が中国の管理下に置かれることになったとき,天皇はどのように自らを処してくださるだろうか?希望を言えば逃げないでいただきたい.昭和天皇が敗戦を受け入れ,御身をマッカーサーに差し出されたのとは,また違うケースをいくつも想定しなければならないだろうが.

だから,次の天皇に求めることは,親しみやすさとかではない.

人工知能と自然

田口善弘 (著)「知能とはなにか ヒトとAIのあいだ (講談社現代新書)  」を読んだ.はっとしたのは,AIは一つの現実シミュレータであるという記述だ.意訳すると,AIが生成した水流のCGは,古典力学に基づいて走らせてきたシミュレーションではないが,非常にそれらしく見える.つまり,人間が自然を記述するために創造した力学は,自然を記述するための唯一の方法ではない.むしろ無限に存在するものの一つだ,という箇所だった.

ここから,AIが共存する世界での自然科学者の仕事とはどんなものか?想像してみた.多分,この1,2年ということではなく,もう少し先のことだと思うのだが,AIの世界シミュレーション能力は,人間が古典力学に基づいて行うものよりもずっと正確になるだろう.ただし,本質的に人間が分かるような原理に基づかないので説明はされない.画家は物理学を学んでいなくてもリアルな水流を描くことができるが,あくまでも感覚のなせる技なので定量的に他人に伝えることはできない.AIもいわば自身にビルトインされた感覚を用いて未来を予測するようなものだ.ただ,その「感じ」が恐ろしく正確無比なだけだ.

ともかくそうなると,AIは道具と言うよりは「第二の自然」になる.いくら世界をシミュレートできたとしても,解明したことにはならない.人類が世界を理解したいという好奇心は今後もなくならないだろうから,自然科学者は,AIがシミュレートする現象を結局は自分の頭でモデル化して理論構築しなければならない.そういう意味で人間が尊厳を失わないで生きていく道はあるのかも知れない.

見世物小屋

お盆なので,何となく故郷のことを考えていたら,秋祭り-->見世物小屋,と連想が働いてしまった.かつての祭りには見世物小屋があった.
 
ちょうどリンク先の写真のように,

【○○女】見せ物小屋の想い出【その5(完)】 : 発掘系まとめ

看板に「うしおんな」の絵が描かれてあったのを覚えている.中では障害のある人が何かの芸をしていたようだ.断言できないのは自分では中を見ていないからだ.私の子供時代(昭和50年代)には,そういうものをあっけらかんと見るという雰囲気はすでになかった.
 
この種の見世物小屋に心が引っかかるのはなぜか?言うまでもない.自分の中の卑しい部分を覗かねばならないからだ.身体障害=不幸だと単純に考えることが間違いだということを理解はできる.しかし,障害者自身が言う「幸せ」が,五体満足な人間が言う「幸せ」と同じ次元のものだとはどうしても思えない.いかに理屈をこねようとも,自分の四肢を失うことは不幸だと素朴に思う.そう思うことは障害者の幸せを否定することになるのだろうか?

ゆたぼんに興味津々

実は50人ほどの不登校児に会っていたとのことなので,見えないところではそれなりに誠実なのかもしれない.とはいうものの,他人の金で観光旅行をし,行く先々の迷惑行為でしょっちゅう炎上している,という側面はある.そして,迷惑行為を指摘された時のキレ方が,親子ともども奇怪なくらい激しい.

 

興味を引く点はいくつかある.

 

(1)メディア上ではヒールとなっているのだが,あれだけ批判されていても支援者が現れる.「不登校児を勇気づける」という看板があるからこそ,その善意を心底信じて支援する人だけでなく,本音では信じていなくても信じるふりをして支援して名前を売りたい人も現れるという理屈だろう.少数であっても支援してくれれば生きながらえることができる.

 

<美しいお題目を唱え,目立つことを何より重視して名前を売り,少数の支援者を得る>

 

というモデルなわけだが,その際,目立つためなら道徳的に良いことでなくても大丈夫なところが面白い.ただの迷惑系YouTuberだった へずまりゅう は良い看板を持たなかったのでうだつがあがらない(消えた?良く知らない).悪目立ちの限界点がどの辺りにあるのか?これは見どころだ.

 

(2)批判者とゆたぼん親子,茂木さんの言うことが噛み合っていない.ゆたぼん親子は,学校に通う子供たちひいては社会を支える多数派の人々を下に見る.

     中村幸也氏のツイート

多数派を十把一絡げにして,下に見る点では,茂木さんも一見似ている.

茂木健一郎氏 ゆたぼん擁護で「もらい炎上」もバッシング投稿は「あくびしかでない」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

彼らにとって,「多数派」とは自分の考えを持たず,ひたすら他人に合わせることのみに汲々とする哀れな人々のようだが,ゆたぼん案件に関しては的外れだ.中には見識の低い悪口もあるだろうが,大方の批判者は,ゆたぼん親子が学校に通う子供たちをロボット呼ばわりすることに対して,学校に通うことに「も」価値があると主張しているに過ぎない.

 

それと,あくまでも私の憶測だが,茂木さんは違う世界を見ていると思う.Wikipedia

茂木健一郎 - Wikipedia)には,進学校から東大理学部,東大法学部,東大大学院理学研究科,理化学研究所ケンブリッジ大学生理学研究所ソニーコンピュータサイエンス研究所,と渡ってきた経歴が示されている.超エリートですな.であれば,周りにも学校教育など蹴散らすような天才級の人たちが大勢いたことだろう.彼の,学校に通うことがすべてではないとの主張は,そういった人たちを念頭にしている可能性がある.見ている世界が違うという意味で,ゆたぼん親子と茂木さんとは同床異夢である.結局,三者は噛み合わない.

 

(3)声変わり前の少年だから何を言っても多少可愛げがあるが,変声期のガラガラ声になったら視聴可能な部分がなくなってしまう.これについては,何か策はあるのだろう.ホリエモンのゼロ高等学園(ゼロ高等学院)に進学するという話も聞いたことがあるが,私は留学するんじゃないかと思う.海外ならアラも目立たないし,なにより,「多様性を認め合う海外で楽しくやってます」と言えるからだ.高校生の年齢だからハーバードなどではなく,適当なところを探し出して何とかするだろう.勿論,他人の金で.

時間差ブーメラン

 団塊ジュニアの先頭が50代に差し掛かり,老害おやじ/おばはんと呼ばれそうな勢いである.しかし,彼ら(筆者も)がまだ若手枠に入っていた20年前,「老害」という言葉にはもっと重い意味があった.例えば,高齢で社長を退いた後も院政を敷いて権力をふるう爺のように,大きな権力を伴った悪のイメージを持っていたものだ.筆者は,中高年を気軽に老害呼ばわりする近年の言説をかなり胡散臭く思っている.タイトルの「時間差ブーメラン」にその思いの一部を込めているのだが,その説明はとりあえず最後の最後に持っていった.どちらかというと明確な論旨を押し出すというよりは,少し思い出話に付き合ってほしい思いで書いてみた.すべて筆者の主観であることを予め強調しておく.
 
(1)思い出
 
 1990年代の後半から00年代までの世論は,かなり一方的に若者をバッシングするものだった.当時の雰囲気を思い描いてもらうために,よく言われていたことの例を挙げてみたい.今とは真逆の命題もある.
 
 ・青少年の凶悪犯罪が増加している
 ・若者はキレやすくなっている
 ・ニートが増えている
 ・若者は甘やかされている
 ・下の世代ほど物質的に恵まれている
 ・若者の学力が低下している
 ・若者の国語能力が低下している
 ・若者の道徳心がなくなっている
 ・夫婦が自分勝手に生きたいので出生率が低下する
 ・独身貴族を満喫したいので結婚しない
 
それと対比する形で,
 ・当時から見た昔の若者は,優秀で根性があり,他人のこころを想像する力があった.
 ・海外の若者は自立心があって,ニートなんぞ考えられない(欧米の若者を想定)
 ・海外の若者は思いやりの心を持っていると同時に根性がある(発展途上国を想定)
 
「最近の若い奴は・・・」という物言いは,大昔から存在するわけだが,00年代のそれは何か一線を越えたような熱気を帯びていた気がする.上記したような命題は,調べれば相当怪しいものであることはすぐ判るが,命題どうしが相互に補強し合うために,信じ込んでしまったら脱洗脳するのが難しい.そして,この論調に沿う言説であれば世間の審査が甘くなり,何でもありの様相を呈する.例えば,こういう出版物が良く引用されていた.
 
   正高 信男  (著)『ケータイを持ったサル ―「人間らしさ」の崩壊』(2003)
 
一群の人々をサル呼ばわりしても許されたということに当時のバッシングの異常性が感じられる.若者バッシングというよりは昔日礼賛的な本だが,
 
   藤原正彦(著)『国家の品格』(2005)
 
はよく売れたので,本来の趣旨とは別に,ある種の人たちに「理屈なんぞいらん」というメッセージを届けることになってしまった.「人殺しは罪だよ」と言うことに理屈を言う必要はないとは思う.しかし,この本は,あらゆる価値観を相対化する努力をせずに他人に押し付けても良いのだ,と一部の人に思わせたフシがあり,結果的に若者バッシングから歯止めを外す効果を持っていた.
 テレビはどうだったか?2007年正月の時代劇でこういうのがあった.
 
   『白虎隊』
 
わざわざ白虎隊をテーマにした上で,ジャニーズタレントを出演させたのは,会津藩の「ならぬものはならぬものです」という七つの教えを現代の若者に対して強調したかったからだろう.これを子供たちが唱和する場面や,野際陽子が格好良く子供をしかり飛ばす場面がわざとらしく出てきて,冒頭から説教臭い.(1986年の年末にも白虎隊をテーマにした時代劇が放映された.こちらも復古的な感慨を強く誘うにせよ,取って付けた感はなく娯楽作品の範疇だと感じられる.勿論これも筆者の主観.)
 
   一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
   二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
   三、虚言をいふ事はなりませぬ
   四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
   五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
   六、戸外で物を食べてはなりませぬ
   七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
 
「ならぬものはならぬ」を強調する点に「国家の品格」の系譜を感じてしまうが,朝日テレビ系列でさえこの保守的な内容だということも当時の雰囲気を語っていると思う.筆者は比較的保守的な気質を持つので,これらの教訓自体については,シンパシーを感じるところもある.四,五などは間違いないところだ.しかしながら,あらゆる道徳的言説が若者バッシングの文脈を伴うところに00年代の異常性があった.
 ちなみに,現在,右派の人達は韓国を良く言わないが,当時は右も左も韓国が大好き・または高く評価していた.流行り始めた韓流ドラマに昭和のドラマを彷彿とさせるものがあり,一部の人は韓国には日本が失った「古き良きもの」が残されていると思ったというのが一つ.会社経営をしている人などは,サムスンが軍隊的な上位下達で,兵隊の社員が必死に働いているらしいことを羨ましがったというのもありそうだった.無論自分の経営能力を棚に上げて.一方,可笑しな言説を真っ向から論破する著作もあった.
 
   パオロ マッツァリーノ  (著)『反社会学講座』(ちくま文庫) 文庫(2007)
 
大学の図書館で偶然見つけ,一語一句自分の言いたいことだったため胸が苦しくなり却って最後まで読めていない.最初に挙げた命題群は相互に補強されているため,その一つでも事実を以て崩されれば,砂上の楼閣であることが露わになるわけだが,まさにその通りの内容である.ただし,一般にはあまり話題にならず世間からは黙殺された形だ.
 
(2)なんで,こんな論調に支配されてしまったのか?なぜいつの間にか下火になったのか?
 
 政治的な背景もあるだろう.ただ,実証はできないものの,より直接的な開始の原因については,
 
①世間が若者に対して抱くイメージが,バブルとその余韻の残る90年代初頭に強烈に印象付けられてしまったという背景があった.つまり,若者の享楽的で馬鹿でチャラくて刹那的な面が強調されたわけだ.古今洋の東西を問わず若者は年配者よりも相対的にそういうものなわけだが,バブル時代の一部のチャラい若者を面白がってテレビが取り上げ過ぎたのが災いした.
②大きく分けて2回に渡る就職氷河期が来るたびに,若者の方に原因を求めたいという欲望が経営層と自分の雇用を守りたい年配者側に生じた
③00年代後半になると団塊世代の定年退職が近づき,何かしら存在感を示したいという漠然とした欲望が生じた
 
辺りではなかろうか.終りの方も独断ではあるが,
 
①命題群の根拠が元来弱いので,ネットの普及と相まって事実が明らかになるとともに急速に下火になった.
②10年代にはいると多くの団塊世代が現役を引退したので,妙な自己主張をする欲望が亡くなった.
③若者の数が減るとともに,実際に平均すると行儀の良い者が増えたので,揚げ足を取りにくくなった
 
団塊世代の心理はちょっと失敬な想像かもしれない.00年代の若者が当時の年配者に抱いた反感と反論が実を結んだ頃には,自分が批判される側になっていた,という意味で「時間差ブーメラン」と題した.そして,道徳論を伴う世間の論調は常に眉唾だと信じるに至った次第.