見世物小屋

お盆なので,何となく故郷のことを考えていたら,秋祭り-->見世物小屋,と連想が働いてしまった.かつての祭りには見世物小屋があった.
 
ちょうどリンク先の写真のように,

【○○女】見せ物小屋の想い出【その5(完)】 : 発掘系まとめ

看板に「うしおんな」の絵が描かれてあったのを覚えている.中では障害のある人が何かの芸をしていたようだ.断言できないのは自分では中を見ていないからだ.私の子供時代(昭和50年代)には,そういうものをあっけらかんと見るという雰囲気はすでになかった.
 
この種の見世物小屋に心が引っかかるのはなぜか?言うまでもない.自分の中の卑しい部分を覗かねばならないからだ.身体障害=不幸だと単純に考えることが間違いだということを理解はできる.しかし,障害者自身が言う「幸せ」が,五体満足な人間が言う「幸せ」と同じ次元のものだとはどうしても思えない.いかに理屈をこねようとも,自分の四肢を失うことは不幸だと素朴に思う.そう思うことは障害者の幸せを否定することになるのだろうか?

ゆたぼんに興味津々

実は50人ほどの不登校児に会っていたとのことなので,見えないところではそれなりに誠実なのかもしれない.とはいうものの,他人の金で観光旅行をし,行く先々の迷惑行為でしょっちゅう炎上している,という側面はある.そして,迷惑行為を指摘された時のキレ方が,親子ともども奇怪なくらい激しい.

 

興味を引く点はいくつかある.

 

(1)メディア上ではヒールとなっているのだが,あれだけ批判されていても支援者が現れる.「不登校児を勇気づける」という看板があるからこそ,その善意を心底信じて支援する人だけでなく,本音では信じていなくても信じるふりをして支援して名前を売りたい人も現れるという理屈だろう.少数であっても支援してくれれば生きながらえることができる.

 

<美しいお題目を唱え,目立つことを何より重視して名前を売り,少数の支援者を得る>

 

というモデルなわけだが,その際,目立つためなら道徳的に良いことでなくても大丈夫なところが面白い.ただの迷惑系YouTuberだった へずまりゅう は良い看板を持たなかったのでうだつがあがらない(消えた?良く知らない).悪目立ちの限界点がどの辺りにあるのか?これは見どころだ.

 

(2)批判者とゆたぼん親子,茂木さんの言うことが噛み合っていない.ゆたぼん親子は,学校に通う子供たちひいては社会を支える多数派の人々を下に見る.

     中村幸也氏のツイート

多数派を十把一絡げにして,下に見る点では,茂木さんも一見似ている.

茂木健一郎氏 ゆたぼん擁護で「もらい炎上」もバッシング投稿は「あくびしかでない」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

彼らにとって,「多数派」とは自分の考えを持たず,ひたすら他人に合わせることのみに汲々とする哀れな人々のようだが,ゆたぼん案件に関しては的外れだ.中には見識の低い悪口もあるだろうが,大方の批判者は,ゆたぼん親子が学校に通う子供たちをロボット呼ばわりすることに対して,学校に通うことに「も」価値があると主張しているに過ぎない.

 

それと,あくまでも私の憶測だが,茂木さんは違う世界を見ていると思う.Wikipedia

茂木健一郎 - Wikipedia)には,進学校から東大理学部,東大法学部,東大大学院理学研究科,理化学研究所ケンブリッジ大学生理学研究所ソニーコンピュータサイエンス研究所,と渡ってきた経歴が示されている.超エリートですな.であれば,周りにも学校教育など蹴散らすような天才級の人たちが大勢いたことだろう.彼の,学校に通うことがすべてではないとの主張は,そういった人たちを念頭にしている可能性がある.見ている世界が違うという意味で,ゆたぼん親子と茂木さんとは同床異夢である.結局,三者は噛み合わない.

 

(3)声変わり前の少年だから何を言っても多少可愛げがあるが,変声期のガラガラ声になったら視聴可能な部分がなくなってしまう.これについては,何か策はあるのだろう.ホリエモンのゼロ高等学園(ゼロ高等学院)に進学するという話も聞いたことがあるが,私は留学するんじゃないかと思う.海外ならアラも目立たないし,なにより,「多様性を認め合う海外で楽しくやってます」と言えるからだ.高校生の年齢だからハーバードなどではなく,適当なところを探し出して何とかするだろう.勿論,他人の金で.

時間差ブーメラン

 団塊ジュニアの先頭が50代に差し掛かり,老害おやじ/おばはんと呼ばれそうな勢いである.しかし,彼ら(筆者も)がまだ若手枠に入っていた20年前,「老害」という言葉にはもっと重い意味があった.例えば,高齢で社長を退いた後も院政を敷いて権力をふるう爺のように,大きな権力を伴った悪のイメージを持っていたものだ.筆者は,中高年を気軽に老害呼ばわりする近年の言説をかなり胡散臭く思っている.タイトルの「時間差ブーメラン」にその思いの一部を込めているのだが,その説明はとりあえず最後の最後に持っていった.どちらかというと明確な論旨を押し出すというよりは,少し思い出話に付き合ってほしい思いで書いてみた.すべて筆者の主観であることを予め強調しておく.
 
(1)思い出
 
 1990年代の後半から00年代までの世論は,かなり一方的に若者をバッシングするものだった.当時の雰囲気を思い描いてもらうために,よく言われていたことの例を挙げてみたい.今とは真逆の命題もある.
 
 ・青少年の凶悪犯罪が増加している
 ・若者はキレやすくなっている
 ・ニートが増えている
 ・若者は甘やかされている
 ・下の世代ほど物質的に恵まれている
 ・若者の学力が低下している
 ・若者の国語能力が低下している
 ・若者の道徳心がなくなっている
 ・夫婦が自分勝手に生きたいので出生率が低下する
 ・独身貴族を満喫したいので結婚しない
 
それと対比する形で,
 ・当時から見た昔の若者は,優秀で根性があり,他人のこころを想像する力があった.
 ・海外の若者は自立心があって,ニートなんぞ考えられない(欧米の若者を想定)
 ・海外の若者は思いやりの心を持っていると同時に根性がある(発展途上国を想定)
 
「最近の若い奴は・・・」という物言いは,大昔から存在するわけだが,00年代のそれは何か一線を越えたような熱気を帯びていた気がする.上記したような命題は,調べれば相当怪しいものであることはすぐ判るが,命題どうしが相互に補強し合うために,信じ込んでしまったら脱洗脳するのが難しい.そして,この論調に沿う言説であれば世間の審査が甘くなり,何でもありの様相を呈する.例えば,こういう出版物が良く引用されていた.
 
   正高 信男  (著)『ケータイを持ったサル ―「人間らしさ」の崩壊』(2003)
 
一群の人々をサル呼ばわりしても許されたということに当時のバッシングの異常性が感じられる.若者バッシングというよりは昔日礼賛的な本だが,
 
   藤原正彦(著)『国家の品格』(2005)
 
はよく売れたので,本来の趣旨とは別に,ある種の人たちに「理屈なんぞいらん」というメッセージを届けることになってしまった.「人殺しは罪だよ」と言うことに理屈を言う必要はないとは思う.しかし,この本は,あらゆる価値観を相対化する努力をせずに他人に押し付けても良いのだ,と一部の人に思わせたフシがあり,結果的に若者バッシングから歯止めを外す効果を持っていた.
 テレビはどうだったか?2007年正月の時代劇でこういうのがあった.
 
   『白虎隊』
 
わざわざ白虎隊をテーマにした上で,ジャニーズタレントを出演させたのは,会津藩の「ならぬものはならぬものです」という七つの教えを現代の若者に対して強調したかったからだろう.これを子供たちが唱和する場面や,野際陽子が格好良く子供をしかり飛ばす場面がわざとらしく出てきて,冒頭から説教臭い.(1986年の年末にも白虎隊をテーマにした時代劇が放映された.こちらも復古的な感慨を強く誘うにせよ,取って付けた感はなく娯楽作品の範疇だと感じられる.勿論これも筆者の主観.)
 
   一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
   二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
   三、虚言をいふ事はなりませぬ
   四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
   五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
   六、戸外で物を食べてはなりませぬ
   七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
 
「ならぬものはならぬ」を強調する点に「国家の品格」の系譜を感じてしまうが,朝日テレビ系列でさえこの保守的な内容だということも当時の雰囲気を語っていると思う.筆者は比較的保守的な気質を持つので,これらの教訓自体については,シンパシーを感じるところもある.四,五などは間違いないところだ.しかしながら,あらゆる道徳的言説が若者バッシングの文脈を伴うところに00年代の異常性があった.
 ちなみに,現在,右派の人達は韓国を良く言わないが,当時は右も左も韓国が大好き・または高く評価していた.流行り始めた韓流ドラマに昭和のドラマを彷彿とさせるものがあり,一部の人は韓国には日本が失った「古き良きもの」が残されていると思ったというのが一つ.会社経営をしている人などは,サムスンが軍隊的な上位下達で,兵隊の社員が必死に働いているらしいことを羨ましがったというのもありそうだった.無論自分の経営能力を棚に上げて.一方,可笑しな言説を真っ向から論破する著作もあった.
 
   パオロ マッツァリーノ  (著)『反社会学講座』(ちくま文庫) 文庫(2007)
 
大学の図書館で偶然見つけ,一語一句自分の言いたいことだったため胸が苦しくなり却って最後まで読めていない.最初に挙げた命題群は相互に補強されているため,その一つでも事実を以て崩されれば,砂上の楼閣であることが露わになるわけだが,まさにその通りの内容である.ただし,一般にはあまり話題にならず世間からは黙殺された形だ.
 
(2)なんで,こんな論調に支配されてしまったのか?なぜいつの間にか下火になったのか?
 
 政治的な背景もあるだろう.ただ,実証はできないものの,より直接的な開始の原因については,
 
①世間が若者に対して抱くイメージが,バブルとその余韻の残る90年代初頭に強烈に印象付けられてしまったという背景があった.つまり,若者の享楽的で馬鹿でチャラくて刹那的な面が強調されたわけだ.古今洋の東西を問わず若者は年配者よりも相対的にそういうものなわけだが,バブル時代の一部のチャラい若者を面白がってテレビが取り上げ過ぎたのが災いした.
②大きく分けて2回に渡る就職氷河期が来るたびに,若者の方に原因を求めたいという欲望が経営層と自分の雇用を守りたい年配者側に生じた
③00年代後半になると団塊世代の定年退職が近づき,何かしら存在感を示したいという漠然とした欲望が生じた
 
辺りではなかろうか.終りの方も独断ではあるが,
 
①命題群の根拠が元来弱いので,ネットの普及と相まって事実が明らかになるとともに急速に下火になった.
②10年代にはいると多くの団塊世代が現役を引退したので,妙な自己主張をする欲望が亡くなった.
③若者の数が減るとともに,実際に平均すると行儀の良い者が増えたので,揚げ足を取りにくくなった
 
団塊世代の心理はちょっと失敬な想像かもしれない.00年代の若者が当時の年配者に抱いた反感と反論が実を結んだ頃には,自分が批判される側になっていた,という意味で「時間差ブーメラン」と題した.そして,道徳論を伴う世間の論調は常に眉唾だと信じるに至った次第.

ルッキズムと私

ルッキズムとか反ルッキズムとかうるさい世の中になってきました.
 
勝手な認識だけど,どっちも米国からじゃないだろうか.自分が子供時代を過ごした1980年代は「人を見た目で判断してはいけません」という道徳観が一応あり,好きな異性を報告するとき(仲間内であったり,担任の先生による調査であったり,それなりにそういう機会はあった),可愛い女の子を可愛いからという理由で発表するのに若干の躊躇があったのを覚えている.一方,斉藤由貴南野陽子のどちらが好みか,などと芸能人に対しては,露骨に容姿を評価してもいた,という微妙なバランスの上に生活していたと思う.それがベストかどうか,はともかく.
 
それが,米国と少しばかり繋がりのあるビジネスマンから「アメリカでは太った人は出世できない.なぜなら自己管理ができないとみなされるから」という話を聞いたり,大統領にはファッションのコーディネーターがついている,とか,とか,人は人を結構見た目で判断するという心理学的事実を米国人らしく馬鹿正直に利用することに一種のすがすがしさを覚え,その見た目も無論ファッションだけでなく顔とか体形も含みつつ,見た目重視で無問題な価値観を少しずつ増強し,つい数年前まで来た・・・と認識している.
 
でも大陸の人ってなぜか極端に走る.痩身信仰に疲れ果てた米国人の末路がこれらしい...
それとか,以下のも最近話題になった.こっちはLGBTQおよび人種マターがより濃厚に入っているため,もう一段複雑ではありますが.少なくとも<いわゆる役のイメージ通りの>美しい人ではない.
もはや,映画やドラマで直球の美男美女が活躍することはなくなっていくのでしょうか?でもポルノだけは例外だろう.
 
となると,伴侶に一般に言う良い容姿を求めることは,最早ポルノなみに下衆なことだと見なされるようになるかも.しかし,セックスという理性から遠い行為において,反ルッキズムみたいな「高尚な」価値観がどれほどの行動変容を引き起こすだろうか?
 
そこで思い出すのが,かつてのオウム真理教におけるダーキニーだ.
宗教的信念が強ければ,麻原みたいなムサイ男とも性交が可能といういことだ.極論ぽいけど,反ルッキズムが宗教にまで高まれば良いのかもね.なんか全然,ブサメンやブスにとって嬉しい話ではなさそうだけど.

経験 VS. 学歴(2)

平原依分さんの主張によれば,
 
親の収入が多い --> 手厚い教育 --> 有名大学入学 --> 「良い企業」に入社 --> 高収入
 
という流れがあるために若者の間に格差が広がるのだ,ということになる.学歴以外の選考基準を提案することは良いことだが,この考察は正しい(というより実態に即している)のだろうか?
 
なぜなら,学歴重視なのは,応募者が殺到する有名企業だけだからだ.そういうところでは,学歴フィルターを掛けないと現実的な労力で選考ができない.
リンク先の表では,大企業とは,製造業だと,従業員数300人より多くて資本金も3億円より多い企業のことだ.そしてそのような企業の従業員数は全企業の従業員数の1/3くらいである.私の勤めている大学は入試偏差値50くらいだが,従業員数300人くらいの企業ならいくらでも採用されている.ということは,有名大学の卒業生でないと就職できないような企業は,もっと大きな企業であり,従業員数は日本人の中でも1/3よりはるかに少ないということになる.ちなみに,いかにも応募者の殺到しそうなイメージのある従業員数5000人以上の企業数は0.03%しかない.
 
要するに大部分の企業は事実上,大学名で新人を選んでおらず(そうするほど応募者はいない),大部分の若者は学歴とは無関係に就職している.公務員試験は大学によらず受けられるのだから,これも学歴は選考に影響しないと言って良い.要するに本人の能力次第である.
 
一方,一握りの若者が「良い会社」に就職した結果,良い思いをしているか,というとそうとは限らない.平均すれば高収入ではあるだろう.しかし,ぶっちゃけた話,高学歴者には優秀な人が多いのは事実であって,その中でそれなりに自分の立場を守りながら成果を上げ続けるのは,イージーモードの人生でもない.
 
付け加えるなら,年収1000万円を超えるためには,トヨタなど超大手を除けば部長以上になる必要があるが,部長とは100人の中の1人である.100人中1番になるのは相応の努力と能力の結果であって,誰も文句は言えないだろう.転職するときに,「あなたは何ができますか?」と問われて「部長ができます」と言った企業幹部がいたという笑い話があるが,部長の大変さを知っていたら笑える話ではない.
 
それにそれに,「大企業に就職したって安泰とは限らんぞ」とは,近年よく言われる話だ.格差問題では大企業へ就職することが有利と言い,若者へのキャリアサポート的な文脈では大企業をディするメディアのご都合主義にはうんざりだ.
 
それでも,平均としての高収入が高学歴の見返りとして与えられているのがけしからんというなら,まあ,一考の余地はあるかも知れない.それでも,(格差解消をとりあえず正義だとして)学歴重視選考に原因を求めるのは的外れと思う.
 
ーーー
後日追記.
記事を書いたときは,中卒,高卒,大卒の違いについてぼんやりとしか考えていなかった.普通大卒で就職する企業に高卒生が入社することは,本人の能力次第で十分に受け入れて良いことだと思うが,履歴書に書かないというのはどうか.だって全く異なる経験をしてきたのだから.

経験 VS. 学歴??

「若者の格差社会をどうすればなくせるか?」というお題に対して,平原依分氏が「企業が学歴を見ずに経験を見て採用すればよい」という意味の事を言い,その意見に対して,成田氏ともう一人(多分顔の知れた人だけど名前は知らない)が「履歴書に書ける経験は,親の収入にモロに左右されるので却って格差を広げてしまう」と反論している.
現実問題としては成田氏が正しいと思った.ただし平原さんに賛成する気持ちが5%くらいあった.5%は,彼女が「育児などの日常も学びにつながる経験だ」と言っていた点から来ている.私はこれでも大学教員をしているので,アピールしやすく就職活動に有利な経験を,なるべく低年次から積み重ねるよう学生に言わざるを得ない(企業はすでに経験重視である).しかし,どうしてもわざとらしさが付きまとう.同じ経験でも,そこから何を学ぶかは感受性に掛かっている.だから見栄えのしない経験しかなくても素晴らしいポテンシャルを持っている可能性は十分にある.日常の経験をヒアリングすることから本人の資質を見抜くことができれば,とても素晴らしいと思う.無論,極めて難しいことなわけで,平原さんは,そういう方法論の明確になっていない領域での遠大な話をしているのかもしれない,と期待したのだ.
 
ところが,平原さんのプロフィールを見てみたところ,
??となったのである.彼女の行動力はすごい.しかし,どう見ても親ガチャ大当たりだ.容姿にもコミュニケーション能力にも恵まれず,私立の進学校に行けなくても,頭さえよければ,東大に入る可能性はそれなりにある.そういう人のことをわかって言っているのだろうか?
 
学歴重視は,金がかかる上に親の多大な理解を要求する経験重視よりもはるかにましだ,ととりあえず結論付けておく.
 
尻切れトンボですが,今回はここまで.

女子会

駄言辞典」という本の紹介:
https://youtube.com/watch?v=f7qHWVR76kw&feature=share

ポリコレ的にまずい言葉が列挙されている本らしい.10分30秒くらいの所で「女子会」って言葉も要注意だということに言及されている.

 

「『女性は若い方が良い』という価値観の押し付けになる」という理屈自体はまあ解る.解るのだが,女性自身が「鬱陶しい男は抜きにして,“女の子”だけで楽しみましょ.そうしましょ.」と言い,周りの男性は「いい年こいて女“子”かよ」と心の中で毒づきながらも,その図太さに一種の畏敬の念を覚えながら「女子会ですか,結構ですな.」と調子を合わせる,という構図が続いているとばかり思っていた.

 

「女子会」という言葉の起源を検索してみたらSPAの2011年の記事が出てきた.
https://nikkan-spa.jp/3080
へ~,最初は読モが言いはじめ,何となくおしゃれなイベントと言うイメージができたというわけか.そこから,10年で価値観が「アップデート」されたらしので,ジェンダー偏見まみれのおっさんもその新しい価値観をインストールせねばなるまい.

 

妻に意見を求めてみたら,特に強い主張は聞けなかった.その代わり,「成人女性のことも『女子』と言うようになったのは,25年前くらい(90年代後半)だと思う.」という証言が得られた.メディアが女性を持ち上げるために若いことを意味する「子」をつけ始め,それにまんまと乗せられたのが当時の女性だね.